当山起立と山寺号
萬松山 光源院
萬松山 光源院
秩父に移住した逸見氏は、本寺永昌院四世、悟宗純嘉を迎えて日野沢に大通院を開き、次いで本寺五世敬翁性連(一説には敬翁も義綱と共に秩父入りしたとも伝えられる)を迎え中飯田村松坂に光源院を開山した。
当山起立の年を確認することは困難だが、義綱在世の時代に開基したとすると享禄二年(一五二九年)ということになろう。
新篇武蔵風土記稿では、永禄元年(一五五八年)と記録されている。
また、当山日鑑の作者十八世頑幸和尚も永禄元年と記載している。だが、永禄元年は享禄の書き違いと思われる。永禄元年は開基の義綱父子が討死して二十年後にあたり、逸見家は再建途上で、寺を建立する余裕はなかった。
また敬翁性連も大通院一世(永禄三年没)が甲斐に戻り、その後任として、遅くも永禄二年には同院二世に就任していたと推定される。
なお、山号は松坂山或は坂松山と記され、二十世寛海和尚の頃から萬松山となっている。寺号は高源院または光源院と書かれているが近世(江戸幕府創立~明治維新)以降は光源院の文字に一定している。
